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【スクリーンに一輪】 (すくりーんにいちりん) 男性2:女性1。 「斯くして王は供物を喰った」の後日譚、「八尾比丘尼、山中にて」の前日譚です。 有償版販売ページはこちら。 ​ 【間鳥 琴子(まとりことこ)】 26歳女性、元女優。 十五歳から続けていた女優業を一年程前に引退し、同時期に蒼士と結婚している。 白坂美琴(しらさかみこと)の芸名で、初主演作が「マクベス夫人」だった事が由来で 「銀幕のレディーマクベス」の通り名で脚光を浴びる。 現在は夢遊病の兆候と蒼士との不仲が元で精神を病み、冬哉の元に相談に訪れる。 ★過去放火事件に巻き込まれ、友人舞台関係者が彼女を除いて全員死亡。 この事件がきっかけで気を病んでいる(「斯くして王は供物を喰った」参照。) が、「気が病んでいるフリ」をして冬哉に近づく。 放火事件の犯人を隠蔽した病院、院長の息子である冬哉を逆恨みし、社会的に殺そうと蒼士の指示で近づく。 【間鳥 蒼士(まとりそうし)】 28歳男性、外科医。 都内の大きな私立病院に勤務し医者としては非常に優秀なものの、特定の人物、物事にしか興味を持てない。 ★「琴子と同じ人数の友人の死」を追体験する為、琴子に不倫を指示し、冬哉を社会的に殺す事を目論んでいる。 放火事件や友人達の死に特に興味はなく、あくまで琴子とこの先添い遂げる為に琴子と同じ経験が欲しい。 【白来 冬哉(はくらい とうや)】 29歳男性、精神科医。 自身と蒼士が勤める、都内の私立病院の院長の息子。素直で人当たりの良い好青年。 兄がおり、病院は兄が継ぐ事が決まっている為、幼い頃から両親に目を掛けられる事なく育った。 ★マクベス ウィリアム・シェイクスピアが書いた戯曲。 領主マクベスとその夫人レディーマクベス、「一卵性夫婦」と呼ばれる程に運命を共にしていた二人が 王に成りあがる為策謀や殺人、暴政を繰り返すお話です。 前半は悪逆と過去に殺した人間の亡霊に怯えるマクベスと、冷酷に策謀をこなすレディーマクベスが描かれていますが、 マクベスが王になり暫くして、レディーマクベスも病んで夢遊病になり、殺した人間の亡霊を見ながら狂死、 レディーマクベスの訃報を聞いたマクベスも戦いの中で敗死します。 ★オペラ座の怪人 ガストン・ルルーが書いた戯曲。 オペラ座に住む醜悪な人相の怪人エリックが、若手オペラ歌手のクリスティーヌに恋をし、 「オペラ・ゴースト」(作品によっては「天使の声」)と称して彼女にオペラの指導を行います。 物語の後半になるにつれエリックは暴走、クリスティーヌをオペラ座の地下へ誘拐し、婚約者やオペラ座を人質に求婚。 クリスティーヌに額にキスをされたエリックは母親からさえもキスをされた事がなかったと感極まって泣き出し、 クリスティーヌを含めた皆を解放する事を決めます。 数日後クリスティーヌはエリックの隠れ家を訪れ、死んだエリックを埋葬します。 ※どちらも媒体によって表現が異なる旨ご承知下さい。 【配役表】 間鳥 琴子: 間鳥 蒼士: 白来 冬哉: ======================================= <病院内、精神科診察室。> ​ 001冬哉:──その女が私の元にやって来たのは、晩秋(ばんしゅう)の冷える日だった。 002琴子:ソウシの、主人の良いご友人であるあなたに。 こんな事をご相談するのは、本当にお恥ずかしいけども。      でも。 あなたは本当に腕が良いと、主人から聞いておりまして。 003冬哉:──銀幕のレディーマクベスと謳われたその女優、シラサカミコト。 本名をマトリコトコ。      わずか十年、芸能界で宝石のように煌(きら)めいた星は今、彗星の如く下降を見せていた。 004琴子:……この所、どうも眠りが浅いみたいで。      夜中、無意識にフラフラと歩き出してしまう事が、何度もあって。 005冬哉:──彼女が寄り添うだけで、男は名声を手に入れた。      事実ここ数年、幾億の金を生むスクリーンでは、世界進出を果たした俳優や映画監督の隣では、      彼女が当然といわんばかりに微笑んでいた。      仕組みも理論も存在しない、大衆の払う金がその自信を裏付けていた。 006琴子:主人……ソウシとも、それが切っ掛けで別居を始めました。      私はどうにも、自分が弱っている事を認めたくなくて。 何度も、彼に酷い事を言いました。 ​ 007冬哉:──伴侶と生涯を共にする為に、と、芸能界を確かに牽引していたその女優は舞台を降りた。      銀幕に収益を、舞台上に喝采を。 男には勝利を、名誉を齎(もたら)したその女は、たった一人を選ぶ。      それでも今は。 008琴子:どうにか、なりませんか。 せめて主人と暮らしても、迷惑を掛けない程度には。 009冬哉:「ごらんなさいまし、出ておいでになりました。 確かに深く、眠っていらっしゃるのです。」      ──そういう調子ですかね。 ​ 010琴子:え? 011冬哉:<笑う> あの頃ソウシくんと、あなたのマクベス夫人、いや。      レディマクベスを観劇していまして。 012琴子:まあそうでしたの。 あれは私にとっても思い出深い役だから、とても嬉しい。 013冬哉:そうでしょう。 あなたがトップスターへ昇りつめるに相応しい舞台だった。      僕のような素人でもそう思った。 あれを、十五歳のあなたが。 014琴子:<苦笑する> 思い返せば、あの頃が一番楽しかった。 舞台があって、仲間がいて、あの人がいて。      主人の紹介で先生やお友達に会った時はとても緊張したけれど、皆良い人で。 015冬哉:僕もまさか、あなたがソウシの恋人だとは思いもしませんでしたよ。      映画館のスクリーンから、ソウシが攫(さら)って来たのかと本気で思った。 016琴子:驚いていらしたのは、そういう事ですか。      でも皆、私が女優だとか、そういう事を抜きにして仲良くして下さったわ。 017冬哉:気の良い連中ですから。 今も、連絡を取っていますか。 018琴子:……すっかり、人と連絡を取るのが億劫になってしまって。 019冬哉:あの、何といいましたか。 パッと名前が出なくて申し訳ない。      劇場のスタッフをしていたご友人とは? 020琴子:チサの事かしら、それともユキコ? 彼女達とも、今は。 021冬哉:そうですか。 しかし、こうしてまたお話しできたのも何かの縁だ。      またみんなに声を掛けて、あの頃みたいにバーベキューにでも出かけましょう。 022琴子:それは、主人の友人でもあるから。 なんだか申し訳ないわ。 023冬哉:お気になさらず。 あなたの友人でもあるのだから。 024琴子:……ありがとう。 <泣き出す> 025冬哉:どうなさいました。 026琴子:いえ、いえ……ごめんなさい。 困らせてしまう。 027冬哉:困りはしませんよ。      仕事上、話してる最中に感情の行先がなくなってしまった方と、お話する機会は多いので。 028琴子:主人と別居し始めてから、その。 人と話す事が、滅多になくて。 029冬哉:心の調子が悪い時は、皆そうなるでしょう。 大丈夫、必ず治りますから。 030琴子:ええ、ええ。 031冬哉:焦ってはいけません。 ゆっくり、治しましょう。 お手伝いしますよ。 032琴子:ありがとう。 先生を頼って良かったわ。 033冬哉:治ったらもう一度、その台詞を聞かせて下さい。      それに。 先生、だなんて畏(かしこ)まらなくていいんですよ。      僕もコトコさん、とお呼びしますから。 034琴子:それも治療の一環かしら。 035冬哉:まあ、はは。 知り合いであれば、この方が気楽でいいでしょう。 036琴子:そうですか。 ありがとう、トウヤさん。 037冬哉:はい。 さて、治療の前にいくつか質問をします。      コトコさん、症状を自覚されたのはいつ頃ですか? <病院内、人気の無い廊下。> 038蒼士:トウヤ。 お前の患者はどうだ。 039冬哉:嫌な台詞だな。 お前の奥様の経過は芳(かんば)しくない。 040蒼士:そうか、手間を掛ける。 041冬哉:ソウシ。 別居していると聞いたぞ。 042蒼士:精神科医はそんな事まで聞き出すのか。 043冬哉:奥様が仰ったんだ。 044蒼士:あれ程プライドの高かった女が、そこまでして医者に縋(すが)るか。 045冬哉:それだけ参っているんだろう。 それに、縋る為に俺みたいな人間がいるんだ、そう言ってくれるな。 046蒼士:そうか。 なら面倒を見てやってくれ。 047冬哉:待て、待てソウシ。 お前から来なければ俺から話しに行こうと思っていた。 048蒼士:なんだ。 049冬哉:お前、奥様と一緒に暮らす気はないのか。 体裁が悪くなるぞ。 050蒼士:……なんだ、病人が縋る為にお前みたいな人間がいるんじゃないのか。 051冬哉:特別心は配っているよ。 でも身内の親族、それも別居中の奥様なら話は別だ。      あれ程の有名人との離婚となれば、 052蒼士:お前のお父様は黙っていないだろうな。 次男坊のポストの為に、俺を蹴落としに掛かるだろうな。 053冬哉:……。 054蒼士:……悪い。 心配はいらないさ、上手くやる。 別れる気もないんだ。 055冬哉:そうなのか? 安心した。 056蒼士:俺とて空恐ろしいんだ。 考えてもみろよ、物音に目が覚めればベッドが冷えていて、      結婚前はあれ程輝かしく見えていた女が、夜な夜な蒼白な顔で、虚ろな目で、      最後の舞台の台詞を永遠と繰り返すんだ。 057冬哉:本人も自覚があるようで、相当参っていたよ。 058蒼士:俺が何度かきつく当たってしまったからな。 059冬哉:……本人も、そう言っていた。 お前は、その。 彼女を諫(いさ)める時に、怪我をしなかったか。 060蒼士:してない。 アレが非力で助かったよ。 061冬哉:長くて三十分、どうにか耐えられないか。 062蒼士:俺が、か? 063冬哉:ああ。 どうも、お前との別居が原因で気が参っているように見える。      精神科医がこんな事を言うのは間違っているのかもしれないが、一友人として。 064蒼士:治療法が有るんだろう? 065冬哉:明確な治療法が無いんだ、長期戦になる。      ベンゾジアゼピン系の薬物投与が精一杯だ。 だからストレスの原因を断とうと、こうしている。 066蒼士:俺との別居か、成程な。 お前は長くて三十分と言ったが、それが毎晩続くのを俺は知ってるぞ。 067冬哉:できる限りのフォローはする。 068蒼士:妻の次は俺の面倒も見てくれるのか、ありがたい事だ。      けれど厄介事は願い下げだ。 治療の予定が狂う、俺には患者がいる。 069冬哉:お前は古い王にでもなるつもりか。 070蒼士:……マクベス、か。 071冬哉:お前さっき言ったな、患者はどうだ、と。      アレはマクベス王が気を病んだレディーマクベスを指した言葉だ。      お前とて忘れた訳じゃないだろう。 072蒼士:……。 073冬哉:病んだ夫人を捨てて、どこへ行くつもりだ。 074蒼士:別れる気はないと言っただろう。 075冬哉:ソウシ。 お前の奥様と、少し昔話をしたよ。 俺は昔を思い出しているんだと思う。      俺達の集まりに、お前が彼女を連れて来た時の事を、お前だって覚えているだろ? 076蒼士:……覚えているさ。 スクリーンから攫って来たと、大袈裟に騒がれたからな。 077冬哉:いつも他人に興味がなかったお前が連れて来たんだ、俺まで嬉しかったさ。      そうして、彼女の友人も交えて遊んだよな。      あの頃のお前と彼女は、まるでマクベス夫妻のようだと思っていた。      一卵性夫婦、そんな言葉がぴったりだとも。      ……どうあがいても、自分はキミ達のようになれないだろう、とも。 078蒼士:……あの馬鹿でかい医大の、院長のお嬢さんだったか。 話は進んでるのか。 079冬哉:再来年籍を入れる事になった。 080蒼士:おめでとう。 081冬哉:めでたい、そうだ、めでたいな。 俺は結局父の、この病院の為の駒だ。 082蒼士:そう言うなよ。 お前は呑気ではあるが、俺よりずっと患者想いの良い医者だ。      将来が定まっているからこそ人の心を見る余裕があると、呑気を言っていたのはあの頃のお前だろ。 083冬哉:<笑う> 俺は、あの頃のソウシ達が羨ましくて仕方がないんだよ。      馬鹿な事を言ってるのはわかってる。 それでも、俺の夢も兼ねて、どうにか。 してくれないか。 084蒼士:無茶を言うな。 俺にはできない。 085冬哉:ソウシ、 086蒼士:<遮る> ああ、そうだ。 お前に話していない事があった。      アレの友人の話をコトコの前でするな。 去年、都内の劇場が全焼した件(くだん)、覚えてるか。 087冬哉:……忘れる訳ないだろう。 うちの職員があんな事を……。      父の代でまだよかった、兄が経営する最中、あんな事があったらと思うとゾッとする。 088蒼士:そのお父様の敏腕っぷりが仇になって、職員は病んで、火を付けたんだがな。      まあ、この結果も警察関係者にコネがあればこそ、か。      まともな報道すら無かったおかげで、特大の火葬場ができた訳で。 089冬哉:……そうだな。 090蒼士:チサさんもユキコさんも、その劇場のスタッフだ。 放火で亡くなっている。 091冬哉:は、えっ!? 092蒼士:わかったか? 死んだ故人からも、焼け落ちた舞台からも、ましてや、スクリーンからも。      俺がコトコを攫い切れなかった顛末がこれなんだ。 俺にこれ以上どうにかできる訳がない。 093冬哉:ソウシ、どういう事だ!? 二人が亡くなっ……彼女は、コトコさんは何も言ってなかったぞ!? 094蒼士:長話に付き合わせてすまなかった。 095冬哉:ソウシ! 尚更だ、お前が傍にいないでどうする! 096蒼士:俺にできる事はない。 097冬哉:友人を失った人間が、どうなるかわからないお前じゃないだろう! 098蒼士:お前に、惚れた女一人攫い切れなかった俺の気持ちがわかって堪るか! 099冬哉:……。 100蒼士:悪いな。 それでも俺は、あの女と共倒れになる気はないんだ。      俺の中の価値が、他人と同等になった、あの女の色が消えた。      俺に見える色がその他大勢と同じ、白と黒になった。 ただそれだけだ。 <冬哉、蒼士を見送る。> 101冬哉:……そう、そうか。 ──なれば、俺が攫うぞ。 <数日後。精神科診察室。> 102琴子:イタリアン? 103冬哉:友人が開いた店なんです。 雰囲気も良いですし、よかったら一緒に。 104琴子:お気持ちは嬉しいです、 105冬哉:ああ、ソウシの事なら気になさらず。 アレには了承を得ていますよ。 106琴子:そうなんですか? 107冬哉:ええ。 108琴子:……そう、そうなの。 主人がそう言って下さるなら、ご一緒しようかしら。      先生が折角誘って下さったんだもの。 109冬哉:コトコさんは真面目だから。 あまり塞ぎこまずに、色々出かけた方がいい。      ソウシの友人の僕がいるんだ、便利に使って下さい。 110琴子:先生みたいな立派な方を使うだなんて、申し訳ないわ。      そのお店に伺うのも、先生のご都合で。 合わせます。 111冬哉:これからは? 112琴子:これから? 113冬哉:ええ。 コトコさんに予定がなければ。 114琴子:私は大丈夫。 115冬哉:なら今日で。 二十時過ぎますが、大丈夫ですか。 116琴子:ええ。 なら、病院を出た所のカフェで待っていてもいいですか? 117冬哉:今から、二十時まで? 118琴子:特に予定もないから。 119冬哉:なら僕の私室で待ちませんか。 寒い思いをさせるのは忍びない。 120琴子:私室に? 院内に私室があるの? 121冬哉:ええ。 122琴子:いいのかしら。 123冬哉:内緒にして下さい。 124琴子:私、好きですよ。 そういう秘密って。 125冬哉:僕も。 小さい頃は秘密基地を作るのが趣味みたいなモンでした。 126琴子:案内して下さるのね。 127冬哉:そうなります。 こちらに。 128琴子:正直助かります。 最近、人と連絡を取る事が億劫で。 待ち合わせをどうしようかと。 129冬哉:そうなんですか。 130琴子:でも先生からのご連絡は、ちゃんと取りますよ。      今後待ち合わせをする事があれば、私が出なくても何度か連絡して下さい。      気付いていないか、億劫になっているだけですから。 131冬哉:……今後も、連絡をしていいのですか。 132琴子:あら、そのおつもりで誘って下さったのではないの? 私の思い違いなら、忘れて下さい。 133冬哉:はは。 流石は女優さんだ。 お恥ずかしい。 134琴子:<笑う> 嫌な気はしませんよ。 先生であれば。 <レストラン前、退店する二人。> 135冬哉:足元、気を付けて。 136琴子:ええ。 ごちそう様、楽しかったです。      ラクレット、あれ、すごいのね。 何度かテレビで見たけど、初めて食べたわ。 137冬哉:ああして目の前で炙ってもらう、っていうのは結構迫力があるでしょう。      お腹いっぱいになりましたか。 138琴子:明日何も食べなくても生きていけそう。 139冬哉:駄目ですよ。 三食食べて下さい。 140琴子:ねえ、あんなに美味しかったのだから、私にもお代に手をつけさせて。 141冬哉:それじゃあ僕の恰好がつきません。 142琴子:あのラクレット、予約が必要だと書いてあったわ。 無理をして下さったのではなくて? 143冬哉:まさか。 友人の店だと言ったでしょう、サービスですよ。      そこまでよく見ていたなら、値段も見たでしょう。 手軽なんですよ、あそこ。 144琴子:誘って頂いた上にごちそうまでして頂いて、悪いわ。 145冬哉:僕が言い出した事ですから。 146琴子:それなら、私がタクシー代を出しましょう。 147冬哉:え? 148琴子:トウヤさん、お家はどちら? <財布を取り出す>      私もご一緒すれば、安く済むけれど。 149冬哉:いや、……コトコさん、あなた、酔っていますね。 150琴子:あなたが止めるから、私は二杯しか飲んでないの。 151冬哉:確認、しますか。 152琴子:駄目。 先に口紅を落としたいわ。 付いちゃうから。 153冬哉:<溜息> 送ります。 タクシー代も俺が出します。 154琴子:トウヤさん、 155冬哉:スーパーに寄りましょう。      そこでワインでもチーズでも、あなたのお金で御随意(ごずいい)に。 156琴子:あら、飲んでいいの? 157冬哉:俺が監督していれば問題ないでしょう。 158琴子:それは、お医者様として? 159冬哉:どちらでしょう。 どちらがいいですか? 160琴子:<笑う> コンビニでも何でもいいわ。      私を一人で歩かせたり、しないで下さいな。 161冬哉:勿論。 <冬哉と琴子が歩いている、反対側の歩道。> 162蒼士:……。 ​ <数週間後、ホテルの一室。> 163琴子:<カーテンを開けて外を眺め、台詞を呟く>      ……沈まぬ白夜(びゃくや)のように燃えて、射影(しゃえい)彼方に尚零し、      ……そうして私はそれきりだった。 私のお前、お前の私よ。 私は、 164冬哉:また朝焼けかい。 165琴子:ごめんなさい、起こした? 166冬哉:自分で起きたんだ、調子は。 167琴子:大丈夫。 私、また夜中に? 168冬哉:二度、どちらも三分程。      怖がる事はないよ。 どちらもやはり、手を繋いでいたら歩き出さなかった。 169琴子:お医者様が付いていて下さるから、まだ安心ね。 170冬哉:俺も問診の必要がなくなって楽だ。      その時も、台詞を繰り返していたよ。 何の台詞? レディーマクベスではないね。 171琴子:オペラ座の怪人。 怪人が恋をするオペラ歌手の役が決まってて。 結局演じないまま終わったけど。 172冬哉:へえ。 じゃあ今は、俺だけが聞ける台詞か。 173琴子:そう言ってくれる? 174冬哉:入場料を払わなくても、夜になればこの国最高峰の女優の芝居が聞けるだなんてね。      有意義と称して差支えないんじゃないかい。 175琴子:あなたの前では一人の女よ。 がっかりした? 176冬哉:いや、全然。 女神が漸く俺にも微笑んだかと、今だって浮かれてる。 177琴子:女神って、私? いやね、買い被らないで。 178冬哉:第一線にいた頃の評判を忘れたのかい。 銀幕のレディマクベス、スクリーンのバラ。      どこもかしこもキミを女神のように讃えていたじゃないか。      俺だってもう、キミの為にいつでも死ねる男でしかなくなった。 179琴子:まるでエリックね。 月給二万フランと五番ボックスは、タクシーとホテル代ってトコかしら。 180冬哉:エリック? 181琴子:オペラ・ゴースト。 オペラ座の怪人の名前。 182冬哉:名前があったんだ、初めて聞いたな。 あらすじは知ってるよ。      オペラ座に住んでる亡霊が、若い歌手に恋をして……何だったか。 183琴子:恋をして、夜な夜な若い歌手、クリスティーヌに歌唱指導をするの、姿を見せずに。      ある時怪人は、彼女を地下に連れ去って、      自分の求婚に応えないならオペラ座を爆破する、と彼女を脅して。      婚約者と地上の人々を守る為に、クリスティーヌは結婚を承諾するの。 184冬哉:それで? 結婚してハッピーエンド? 185琴子:母親すら愛さなかった、キスもされた事がなかったエリックはね。      クリスティーヌから額にキスをされて、甚(いた)く感動して、感極まって泣き出して。      全員を解放して、そうして死んでいく。 186冬哉:死ぬ? 結局人間なのかい? 187琴子:鼻も唇も無く、落ち窪(くぼ)んだ目、醜悪な人相に壊死(えし)した黄色い皮膚。      それでも、彼も人間。 ただ愛された事がなかっただけの人間よ。 188冬哉:そうか。 怪人と銘打たれていたから、亡霊か……      兎に角、人間とは違うものだとずっと思っていたよ。 彼も人間なのか。 189琴子:そうよ。 何か? 190冬哉:聞けば聞く程、俺のようだなと思ったよ。 191琴子:似ても似つかないわ。 192冬哉:そうじゃない。 母親にキスをされた事がない、って。 193琴子:された事、ないの? 194冬哉:ないよ、記憶の限りは。 俺の写真すら一枚も無い。 195琴子:そうなの? 病院のご子息って、どの脚本を見ても皆、大切に育てられていると思ったけど。 196冬哉:それは兄だな、俺の兄。 病院の跡目も、母の寵愛(ちょうあい)も、父の期待も。      全部兄が持っていったよ。      俺は精々、親が決めたお嬢さんをもらって、兄の経営の手伝いをしていく駒だ。 197琴子:そんな寂しい事を言わないで。 今は私がいる。 198冬哉:地下に連れ去ってもいい? 199琴子:私が夜な夜な歩きだしても、見守ってくれるんでしょう? 200冬哉:勿論。 201琴子:なら、どこだって厭(いと)わないわ。      私、あなたと会う時は指輪を外してるの、気付いてた? ほら。 202冬哉:気がつかなかった。 203琴子:ソウシさん、人を見限ると早いから。 ほら見て、ケータイに連絡すら無いの。      あの時すぐにわかったわ。 あなたに私を頼んだって事は、そういう事なんでしょう。 204冬哉:……はは、俺の連絡ばかりだ。 ケータイ、返すよ。      ソウシはスキゾイドパーソナリティ障害の気がある。 診察を受けてくれと話した事もあったんだけどな。 205琴子:なぁにそれ、病気? 206冬哉:アレが対人接触を好まず、何事にも興味がないように見える、事はないかな。      最も、キミと結婚生活を送れていたようだから、何とも言えないけれど。 207琴子:……あるわね、ええ、何度も。 それで寂しい思いをした事だって数え切れないわ。      そう、そうなの。 そうなのね。      今の私と同じようなモノを長年抱えていると、言われたら納得できる事が沢山ある。 208冬哉:もう気にする事はないよ、俺がいるじゃないか。      今までの暮らしを、思い煩(わずら)う事はない。 209琴子:でもね。 私だって、あなたを試しているのかもしれないけれどね。      幾度と連絡をもらって、そうして漸くあなたと、自分と向き合う勇気を持つのだから。 210冬哉:いいさ。 幾度目かには振り向いてくれるのだから。      見向きもしない家族を待っていたあの頃と比べたら、ずっといい。      エリックも、こんな気持ちだったんだろう。      どんなに華やかな彼女でも、手を伸ばせば応えてくれるとわかっていたから、      だからこそ、手に入れたと確信した時に泣き出したんだろう。 211琴子:あなたも泣き出すの? 212冬哉:そんな日がくればね。 俺の望みは、ただそれだけだ。 213琴子:くるといいわね。 214冬哉:本当にそう思ってる? 215琴子:今は思ってるわ。 私もクリスティーヌの気持ち、わかるんだもの。      大きな舞台に立つ時は、いつだって心臓が壊れてしまうかと思うくらい緊張する。      そんな時に、オペラ・ゴーストの。 あなたの声が聞こえたら、どんなにいいのかしらって。 216冬哉:嫌な事も、辛い事も、もう考えなくていいよ。 俺を信じていて。      地下も中々悪いモンじゃないさ、きっと。 わかり合える人さえいたら。 217琴子:そうね。 本当に、そう思う。 こんな風に寄り添って安心できる場所なら、尚更。 218冬哉:僕の特等席で、歌唱指導、するかい? 219琴子:毎晩は嫌ね。 私の特等席でもあるのよ。 <冬哉、琴子、笑い合う。> <院内、閑散とした廊下。> 220蒼士:トウヤ。 お前の患者はどうだ。 221冬哉:最近は調子が良さそうだよ。 散歩の際に撮った水鳥の写真を見せて頂いた。 222蒼士:そうか。 223冬哉:連絡の一つくらい、取ってやったらどうなんだ。 えらく寂しがっていたよ。 224蒼士:しばらくオペが立て込んでいてな、俺に余裕がないんだ。 225冬哉:この後も勉強会だったか。 226蒼士:ああ。 あー……お前の私室の隣だ、喧(やかま)しかったらすまない。 227冬哉:お構いなく。 ああ、後輩達と? 228蒼士:相変わらず血気盛んでな。 より良い治療法だのなんだの、まるで学生のように話し込むんだ。 229冬哉:それをお前が取りまとめて、十分に評価されてるじゃないか。      お前と同じ科じゃなくてほんとによかったと思ってるよ。 230蒼士:なんだ、随分機嫌が良いじゃないか。 231冬哉:僕が? 232蒼士:ああ。 何か良い事でもあったのか? 233冬哉:そりゃ、患者の容体が良くなっているのを見ればね、おのずと。      僕の専門はソウシのように、手術で目に見えて良くなる訳じゃないからさ。 234蒼士:お前の話を聞けば聞く程、医者としての自分が嫌になるよ。      目に見えて良くなる、か。 俺こそ、お前と同じ科じゃなくてよかった。      心のある人間にはどうあっても敵わない。 出世争いに勝てる気がしない。 235冬哉:同じ事を言うよ。 腕の良い人間にはどうやっても敵わない。      それに、僕はどうあがいても天上があるからね。 236蒼士:お前は終始笑いながら、それでも不貞腐れているように見えたんだが。      最近はどうも機嫌が良いよな。 237冬哉:そうでもないさ。 さっき言った通り。 238蒼士:欲しい物でも、手に入ったのか? 239冬哉:──……欲しい物? 240蒼士:最近のお前と、長期入院している子供と。 同じ目をしている。      彼らは、そうだな……。 ぬいぐるみ、プラモデル、ゲーム、そして両親や友人の面会。      欲しい物が手に入った日は、いつもと表情が違う。 俺の新発見だ。 どうだ? 241冬哉:<笑う> 大当たりだよ。 ソウシ、キミ、人を見る気になったのか。 242蒼士:それ程に最近のお前が目に付いたんだよ。 そら、何が手に入った?      参考にしたい。 俺達のような成人男性は、何が手に入ればそうなるんだ? 243冬哉:……ふふ、はははは。 ははははは! 地上だよ。 244蒼士:地上? 245冬哉:そう、そうだよ。 神は漸く俺にも微笑んだ。      俺は天井のある場所から、やっと、やっと。 地上に出られるんだ。 246蒼士:……天井、か。 この病院の揶揄か? 引き抜きの話でもあったのか。 247冬哉:そんなつまらない話じゃないんだ。 俺は、人間として、ここから外へ出れるんだ。 248蒼士:へえ。 さて、何なんだろうな。 それを知れば、お前と喜びを分かち合えるのか? 249冬哉:ああ、きっと。 お前も喜んでくれると思う。 250蒼士:そうか。 ……いい知らせを、楽しみにしてる。 <冬哉の私室、訪ねる琴子。ノック音。> 251冬哉:はい。 252琴子:<入室する> トウヤさん。 253冬哉:ん、……どうした? 今日は診察はないよね。 254琴子:会いたくなったから来たの。 駄目? 255冬哉:いいや、嬉しいよ。 誰かに見られては? 256琴子:勿論いないわ。 教えてもらった通路を歩いて来たの。 257冬哉:ああ、一人で? 258琴子:ええ。 探検みたいで楽しかったわ。 259冬哉:俺にとっては檻だけどね。 260琴子:<笑う> 前にお友達に教えてもらった、美味しいドーナツを買って来たの。 食べない? 261冬哉:もらうよ。 丁度書類が片付いた所なんだ。 どこの店? 262琴子:三駅向こうの、ショッピングモールの中。 263冬哉:一人で行ってきたのかい? 264琴子:ええ。 ドキドキしたけど、楽しかった。 265冬哉:最近は何だって楽しそうにしているね、良い兆候だ。 266琴子:ありがとう。 あなたのお陰よ。      女優をしていた頃は、こうして出掛ける事も少なかったし。 267冬哉:今度お友達と出掛けるといいよ。 俺とばかりじゃ退屈だろ? 268琴子:ええ。 お友達と、出掛けてみるわ。 269冬哉:あ、そうだ。 手を出して。 270琴子:なあに? 271冬哉:これ、プレゼントなんだ。 272琴子:まあ。 ……舞台? 273冬哉:見に行かないか? 好きだろ、舞台。 274琴子:ええ好きよ。 大好き。 一番好き。 どうもありがとう。      主演、知り合いの俳優だわ。 前に打ち上げで良くしてもらったの。      そう、そう、甘い物が好きな方でね。      打ち上げで、取りに行くのが恥ずかしいから、コトちゃん、俺の分も取って来て、なんて、      可愛い事を仰る方なのよ。 275冬哉:そうなんだ。 そんなに親しくしていた方なら尚更、終わったら挨拶でもしておいでよ。 276琴子:共演の予定もあったんだけど、私が舞台を降りてしまって、そのままになっていたの。      ああ、この子実は、カメラが回ってないと仏頂面で愛想はないけど、とっても良い子なの。      舞台上と客席と、また会えるなんて嬉しいわ。 277冬哉:……饒舌(じょうぜつ)だね。 ちょっと驚いた。 278琴子:それくらい、嬉しいの。 どうもありがとう。 279冬哉:<笑う> ……もう一つ、受け取って欲しいんだけど。 280琴子:何かしら。 あなたからの贈り物はいつも素敵な物ばかりで、ドキドキするわ。 281冬哉:ならよかった。 父に話したよ、いずれ、もう少し時間が経ったら、紹介したい人がいると。 282琴子:……気が早いのね。 お父様はなんて? 283冬哉:怒られた。 けど、俺を病院の駒から解放してくれと、そう頼み込んだ。      そうしたら、家族と話をする場を作ってもらった。      ──ありがとう、キミのお陰だ。 俺も漸く地上に 284琴子:ねえ。 285冬哉:何? 286琴子:こちらに来て、あなたの特等席で、私の特等席で。 私の台詞を、一言一句をよく聞いて下さる? 287冬哉:ああ、いいよ。 どうしたんだい、急に。 288琴子:──「あなたの運命については、何も心配することはない。」      「私は世界中の誰よりもあなたを大切にし、尊敬している友人だ。」 289冬哉:……コトコ、 290琴子:──沈まぬ白夜のように燃えて、射影彼方に尚零し、そうして私はそれきりだった。      私のお前、お前の私よ。 私は。 「幾らあの華やかな女優に手を伸ばしても、終ぞ届く事は無かった。」 291冬哉:……エリックの、台詞、なのか? なら、あの夜中に繰り返していた台詞は、──っ!? 292琴子:<リップ音> 「そうよ、私はとうに、一人で歌える。」 293冬哉:コトコ? あの、劇場から逃げろと繰り返していたのはクリスティーヌの、 294琴子:「だからあなたにキスを残して、あなたをおいて光の元へ。」 295冬哉:<琴子に掴み掛かる> コトコ、コトコ!? 一体何を言って 296琴子:<遮り、大声で> 嫌、離して、離して! 297冬哉:っ、す、すまない──!? ​ 298冬哉:(そうして突然大声を上げた女は。 私の顔も見ずに、──こちらに擦り寄った。) <私室に飛び込んで来る蒼士。> 299蒼士:コトコ! 300琴子:ソウシさん! 301蒼士:トウヤ、貴様! 302冬哉:……は? 303蒼士:お前、俺の妻に何をした!? 304冬哉:──な、にって 305琴子:ごめんなさいあなた! 誤解よ、今のは誤解なの! 306冬哉:(「君だけが私を羽ばたかせることができたんだ。」) 307琴子:ハクライ先生はただ、ち、治療をと…… <泣き崩れる> 308蒼士:治療? カルテすら無いこの私室で、どうやって治療をするんだ! 309冬哉:(「それは、今終わった。」) 310蒼士:トウヤ、言え。 俺の妻に何をするつもりだったんだ。 311冬哉:(一秒も狂いのない台詞。 見事な主演と、助演と、呆けるだけの私。      連れた観客が歩み寄る、その足音を聞いて。 怒鳴る男の、腕の中の女は、酷く怯えた顔をしていた。) 312蒼士:何かの間違いだと思いたかった、お前がコトコを付け回していただなんて!      コトコのケータイを確認した。 お前の一方的な連絡ばかりじゃないか! 313冬哉:そ、それは! 314琴子:<泣きながら> あなた、止めて下さい! 先生はそんな事は! 315冬哉:<数人に取り押さえられる> ──よせ、離せ! 私は疾(やま)しい気持ちは……っ! 316蒼士:あったんだろう!      お前の馴染みの店から、お前がコトコの手を引いて出て来たのを見ている、写真も撮ってある! 317冬哉:ソウシ、俺の話を聞いてくれ! 318蒼士:その口紅を奪ったお前の話など、聞ける訳がないだろ! 319冬哉:──……! 320蒼士:人の妻に不貞を働いて尚惚(とぼ)けるか。 許しはしないぞ。 321冬哉:違う、違うんだ! この口紅は……! 322蒼士:申し開きは院長の、お前のお父様の前でしてもらおうか。      ……残念だよ、お前はいいライバルだと、ずっとお前と競い合っていくんだと、そう思っていた。 323冬哉:(その時、女が笑ったような気がした。 名誉の女神は、大舞台を成し遂げて笑い、) 324琴子:──。 ​ 325冬哉:(さようなら、オペラ・ゴースト。 そう、確かに) ​ 326冬哉:……ぁぁあああああああああああ、離せ!      あの女だ! 清廉(せいれん)な仮面に策謀を隠しているのは!      いずれ皆が食われるぞ、かつて劇場を呑みこんだように! いずれ! この病院が食われるぞ! 327蒼士:何を馬鹿な事を。      院長には私が電話で話しておく。 妻を落ち着かせたい、キミ達はその不貞者(ふていもの)を院長室へ。 328冬哉:ソウシ! お前、お前も加担しているな!? 許さないとは俺の台詞だ!      殺してやる、必ず、必ずだ、待っていろ!      揃いの地獄になど送ってやるものか! 忘れるな! 俺が! 必ず殺してやる! <冬哉、拘束されたまま退室する。> 329蒼士:……コトコ。 大丈夫か。 <暫くしてから、小声で> ……皆離れた、終わったぞ。 330琴子:<暫く荒い息使い、足音が聞こえなくなってから、小さく笑う。> ​ <蒼士と琴子の家。> 331琴子:<暫く笑う> あの男、直(じき)に首を吊るわ。      実直な人間程、己(おの)が見たくない物は直視できないのよ。 所謂(いわゆる)愚か者なのよ。 332蒼士:そう言ってやるなよ。 唯清廉潔白な人間がこの世で何人いる? 数えた上で聞かせてくれよ。 333琴子:あなたにしてはつまらない御託(ごたく)ね。 私の主演は飽きたのかしら。      のうのうと生きる卑怯者。 呑気だけが取り柄の愚か者。      女一人まともにエスコートできない愚鈍なお坊っちゃま。      清廉潔白を名乗る人間こそが愚かと。      何も見えないまま、唯、幕間(まくま)に消えていった男の話なのだけど。 334蒼士:脚本も、舞台も、俺達の芝居も完璧だった。 マクベス? 一卵性夫婦?      ふざけた事を抜かす、あれはただのお伽噺だ。 あいつの目は節穴だったようだ。 335琴子:本当の演出家は彼だったのかもしれないわね。 あれは金を払って見る夢でしかないのよ。      演出家というモノは常々夢見がちなのよ、くだらない。      永遠にお気に入りのお伽噺を咀嚼していればいいわ! 336蒼士:そうさ、俺達が生きるのは現実だ。      お前が亡霊に連れ去られる理由も、お前が死神に娶(めと)られる理由もない。 337琴子:私が偽りの精神病で、スポットライトの下で死ぬような可愛い女に見えて? 338蒼士:その通り、レディーマクベス。 俺の可愛い妻、俺の最愛の妻。 お前無しに俺の人生は成り立たない。      古い王と違うのは、俺が手を汚すのは俺達が共に黄泉に向かうその時だ。 339琴子:そうよ私の王、ただ一人の王。 あなた無しに私の人生は成り立たない。      あなたの道に誰が立ち憚(はばか)ろうとも、汚れるのは私の手。 あなたの手は清廉なまま。      あなたの手が汚れるのは、私達が死神に抗うその時だけでいい。 340蒼士:支えを失えば? 341琴子:失う事などあり得ない。 342蒼士:そう、俺達はそれでいい。 343琴子:なら、裏切る事があれば? 344蒼士:裏切る事などあり得ない。 345琴子:ええ、私達はその通り。 ならばあなたは何を怯えているの? 346蒼士:──ははは、お前は騙せないか。 347琴子:私を誰だと思って? 銀幕のレディマクベス、あなたの妻よ。      一つ教えておいてあげる。 あなたは自分に嘘をつく時、目をそらす癖があるわ。 348蒼士:ならば俺からも一つ。 お前は腹が立つと饒舌になる癖がある。 349琴子:……ふふふ。 やはり喧(やかま)しい演出家のつかない芝居は楽しいものね。 350蒼士:そうだ、これは芝居ではなく現実だ。 だからこそきっとこの先、俺はあの男の亡霊を見る。 351琴子:……まあ、呆れた。 352蒼士:呆れた? 何を 353琴子:亡霊などこの世に存在しないわ。 オペラ座の怪人も、結局は醜悪な面(つら)の男でしかなかった。      亡霊も、天使も、悪魔も、神も。 何もかも物語の一登場人物、人間でしかないのよ。      あなたは絵画に描かれた悪魔を怖がる子供と一緒。 夜に揺れる木々を魔王と見紛う子供と一緒。      教えて。 何に亡霊を見ているの。 全部私が握り潰してあげる。      私はマクベス夫人とは違って子供を産んだ事はないけど、でも。      産んだばかりの、乳に吸い付く赤ん坊の頭蓋骨を砕く事だって容易いわ。 354蒼士:……。 「大海原(おおうなばら)の水全てを使えば、この手についた血を落とせるのか?      いいや、それどころか俺の手は、広大な海を血の色で染め、海の緑を赤一色にするだろう。」 355琴子:「ほんの僅かな水さえあれば、私達がやったことは消えましょう。 訳も無い事です。」 356蒼士:こういう具合でいいのか。 357琴子:ええ。 358蒼士:傑作だ。 「俺達は小国の王を確かに殺した、直に護衛がやって来るぞ。」 359琴子:「酒を飲ませた護衛の短剣に血を擦(なす)り付けました。 後は大袈裟に王の死を嘆けばよい。」      「顔を輝かせて皆(みな)を欺(あざむ)きましょう。      偽りの心を隠すのは、偽りの顔しかないのだから。」 360蒼士:「そうして、明日、また明日、そのまた明日と一日が過ぎ去って行き、      定められた時の最後の一行に辿り着く。」      そら、今度はどうだ。 361琴子:お上手。 362蒼士:悪くないな。 こうして自分に色を塗るというのも。 成程、皆こうして他人に色を見せて生きるのか。      しかしこれを、命を懸けたいとまで言うお前の事はよくわからん。 363琴子:ならばどこまでも、追い掛けていらして。      私ってば、良い芝居を終えた後ってどこにも帰りたくなくなるのよ。      追い掛けていらして。 いつまでも楽しい夢を見させてあげる。 364蒼士:わかった。 さて、俺はどっと疲れたぞ。 慣れない事をした。 365琴子:そう? じゃあ、もう寝ましょう。 366蒼士:ああ。 ワインは……今日はいいか。 まるで血のように見える。 367琴子:少し離れている間に臆病になったのね。 歌唱指導、する? 368蒼士:手紙を読んだ時も思ったが、実に趣味の悪い冗談だな。 <数時間後。蒼士が起き上がる。> 369琴子:<隣室をうろうろと歩きながら、蒼士がやって来るまでうわ言のように繰り返す。>      ……劇場を……逃げて……ここは……危ない、から……早く……。 370蒼士:……ん。 コトコ? ……コトコ。 <蒼士、琴子の声を聞きつけて隣室へ走る。> 371蒼士:っ、コトコ! 372琴子:ソウシさん。 稽古に、行かないと。 行かないと。 稽古に、……。 373蒼士:コトコ。 374琴子:ほら。 ほら、あの、スポットライトを、落として。 375蒼士:ほらな。 俺達に眠りはないぞ。 俺達は眠りを殺した。 376琴子:一瞬で、舞台上を焦がして。 377蒼士:いや、そもそも眠りなどあったのか。 あの日、赤々と劇場が燃えた日から。 378琴子:緞帳も人も、同じように、煤(すす)になるの。 379蒼士:狂ったお前ただ一人が助け出された、その日から。 380琴子:燃やして。 381蒼士:まだ繰り返すのか、また繰り返すのか。 382琴子:焼いて。 383蒼士:「人の命は歩き回る影法師、哀れな役者にすぎぬ。」 確かにな。 384琴子:消えろ、消えろ、つかのまの蝋燭! 385蒼士:俺のお前よ。 それでも俺は、 386琴子:消えろと言うのに、 387蒼士:俺は、あの王とは、マクベスとは違う。 388琴子:血が、血が落とせないの。 389蒼士:お前と同じ物欲しさに殺したよ。 390琴子:早く、……早く、緞帳を上げて。 391蒼士:これで漸く、寸分違わず、一緒だ。 ほら。 392琴子:私の、私の台詞の続きを。 393蒼士:今尚燃える芝居の続きを。 394琴子:沈まぬ白夜のように燃えて、 395蒼士:射影彼方に尚零し、 396琴子:そうして、殺した人々の骸と、 397蒼士:死なば諸共、血塗れの道を、 398琴子:光の下に立てない私を、 399蒼士:死神が迎えに来る、その日まで、 400琴子:殺して、 401蒼士:そうして、生きていくんだ。 2017.1.31 完成 羽白深夜子 2017.2.4  修正 羽白深夜子 2017.2.13 修正 羽白深夜子 2018.4.9  修正 羽白深夜子 2020.1.10 修正 羽白深夜子 2022.2.20 更新 羽白深夜子 2024.5.1 修正 羽白深夜子 2025.9.1 更新 羽白深夜子 引用 「マクベス」ウィリアム・シェイクスピア 「オペラ座の怪人」ガストン・ルルー サイトへ戻る